2010年1月 6日 (水)

【攻城記】伊賀上野城

オフシーズンは旅の話題で、ということで、
さっそく城攻めの報告からはじめさせていただきます。
 
昨年の4月なのでもうかなり前になってしまいましたが、三重県伊賀市にある
伊賀上野城を攻めて(笑)きました。
以前のエントリーでさらりと触れていましたが、正解発表も兼ねてちゃんと書きます。
 
忍者の里としてあまりにも有名な伊賀市。
街を走る鉄道も、
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このように忍者のイラストが描かれております。通称『忍者列車』という伊賀鉄道
(旧近鉄)の車両で、漫画家の松本零士氏によるデザインだそうです。
このグリーンの他にピンクと、昨年12月にデビューした新型車両をベースにした
ブルーの3編成が運行中です。
特別なのは外観のみで、内装は通常の車両と同じです。
間違っても走行中にイスが回転して車外に脱出できるとか、イスの下に武器が
隠してあるとか、そんな仕掛けはありません。
 
この伊賀鉄道伊賀線伊賀上野駅のすぐ横に伊賀上野城があります。
もともと建っていた砦を筒井定次が改修して城とし、さらに“築城の名人”として
知られる戦国武将・藤堂高虎の大改修によって現在の形になりました。
 
ここの見どころはまず、何と言っても高石垣。
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この石垣は藤堂高虎によるもので、高さ約30mという大迫力の石垣です。
時間が無かったので横からしか見られませんでしたが、下から見上げるように
するともっとデカさを感じることと思います。
伊賀上野城は日本100名城に選ばれていますが、昭和に入ってから建てられた
天守閣よりも、この高石垣が選定の決め手となったのでしょう。
 
最近は石垣も気になりつつありますが、やはり「城の醍醐味は天守閣」というのは
変わりません。
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。。。桜満開ですね。何と季節外れな写真なんでしょう(苦笑)
藤堂時代に5層の天守閣を建造していたのですが、完成直前に暴風雨で倒壊し、
以後再建されることは無かったそうです。
今建っている3層の天守は、昭和10年に造られたいわゆる“模擬天守”で、
往時とは関係の無い建物。
天守台は5層仕様のまま残っているのに建っている天守は3層なので、石垣の面積が
大きくアンバランスな印象です。
模擬とはいえ、千鳥破風・唐破風・切妻破風と多用な屋根の形式を一度に見られて
楽しめます。現存とか復元とか模擬とかこだわらず、純粋に城郭建築として見ると
なかなか面白いと思うのですが。
 
建物の中は、他の城と違わず歴史博物館となっています。
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写真の兜は、藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領したものらしいのですが、
こんなにもデカい飾りがついてたら戦いにくくてしょうがなかったでしょうね。
 
この城を訪れるのに最も適した季節は、やはり桜の見ごろとなる4月上旬でしょう。
岐阜からは、国道258号線を南下して、桑名東ICから東名阪を亀山方面に。
そのまま名阪国道を走って中瀬ICから国道163号を西へ進むと案内看板が
見えてくるはずです。

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2009年10月13日 (火)

中津城でござる

萩城を攻め落とした(笑)翌日は、大分県にある中津城を攻めてきました。
 
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名参謀・黒田如水が築き、細川忠興が改築した城で、「日本三大水城」のひとつに
挙げられています。
現在は見事な天守閣がそびえているのですが、これは戦後になってから鉄筋コンクリートで
建てられた“模擬天守”で、当時はこのような天守閣は無かったというのが通説です。
この形状、昨日のエントリーを見た人はピンとくるかもしれません。
そう、萩城の天守をモチーフにしているのだそうです。
なぜ大分の城に山口の城を持ってきたのかはわかりませんが、萩城→中津城という
順に見に来た僕にとってはちょうどよかったです。
昨日紹介した石垣にこの天守を乗せるとどうなるか?
 
というのは時間がある時にフォトショップでちょちょっとやってみようと思います(笑)
 
さきほどの2氏に次いで入城した小笠原氏のあとを受けてこの地にやってきた奥平氏が
明治維新までこの地を治めました。
この奥平氏というのが、長篠の戦いで徳川方として長篠城に籠城し、武田軍の猛攻を
耐えた奥平信昌の家系であるため、天守内の博物館には彼が長篠戦で着用したとされる
甲冑や、
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社会化の授業でおなじみの「長篠合戦図屏風」が展示されていました。
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織田信長や豊臣秀吉、徳川家康、武田勝頼など名だたる名将の存在が確認できます。
 
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お、又左もいる☆
 
ちなみにこの奥平信昌は美濃国加納藩を治めていた時期もあったそうで、
岐阜との不思議な縁を感じました。
 
戦国期の有名な武将2人が居城としていたにもかかわらず、現在では訪れる人も
少なく、ずいぶん閑散としていました。
「維持費がかさんで毎年赤字に陥り、売却先を探している」なんて暗い話題もある
そうです。
 
最近の戦国ブームで来場者が増えるといいのですが。。。
 
とりあえず落城、と。
Rakujou2

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2009年10月12日 (月)

萩城(跡)でござる

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先週の話ですが、佐賀遠征へ行く前日、宿を取った下関に寄る前に寄り道をして、
萩へ行ってきました。
長州藩の藩庁が置かれた萩には、萩城が築かれていました。
明治時代に発令された廃城令によって天守閣や櫓は取り壊されてしまい、現在は
石垣が残るのみとなっています。
 
やはり天守がないと寂しい。。。
 
公園として残されている城内には、明治時代に撮影された写真が掲示してありました。
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この萩城の城主は、代々毛利氏が務めていました。
そう、「三本の矢」で有名な毛利元就の家系です。
 
一時は九州北部から岡山県西部まで広大な領地を有していた毛利氏でしたが、
関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れたために、その所領のほとんどを没収されて
周防と長門(現在の山口県)2ヶ国を残されたのみとなってしまい、
さらに藩庁も領内の西端でお世辞にも交通の便がよいとは言えないこの萩に
置くよう命じられてしまったのです。
 
その関ヶ原の戦いで西軍の総大将として担ぎ出された挙句、大坂城から出陣する
こともなく敗軍の将の汚名を着せられたボンクラ(笑)がこのお方、
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毛利輝元。元就の孫です。
 
それまでの居城だった広島城に比べると、萩城はかなり小ぶりな天守閣で、
毛利氏の凋落ぶりがうかがえます。
 
ここで約260年もの間じっと機会を待ち、幕末には徳川家から悲願の政権奪取を
果たしたわけですね。
 
天主閣跡の石垣の上にも上がれましたが、やはり間取りは狭そうでした。
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それでも、この見事な弧を描く天守台の石垣からもわかるように、
小さいながらも完成度の高い天守が築かれていたようです。
そのあたりは、一時は「西国の雄」として覇を唱えた毛利氏だけに、せめてもの意地
を見せたのかもしれません。
 

Rakujou
跡しか残ってませんが落城っと☆
タオマフを持っていき忘れたのでタオルハンカチで(爆)
 
実はこの萩城、天守閣再建の動きがあったようで、残念ながら資金の調達が困難で
頓挫してしまったそうなのですが。。。
 
~続く~

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