《城攻め》

2012年6月11日 (月)

城攻め戦記 ~備中松山城~

なぜかこのタイミングでお城の話です。
 
ゴールデンウィークに、岡山県高梁市にある備中松山城を攻めてきました。
「松山城」といえば愛媛県の松山城が有名ですが、こちら岡山県の松山城も
江戸時代の建築がそのまま残る「現存天守」で、しかも現存十二天守の中で
最も高い標高430mにあります。
明治時代に発令された廃城令により取り壊されるはずでしたが、高地にあるため
わざわざ壊しに行くのが面倒で取り壊しを免れた城です。
 
「日本三大山城」のひとつに数えられ、ふもとからは、途中の城見橋公園駐車場
までは自家用車で上がれますが、そこからさらに途中のふいご峠まではシャトルバス、
さらにそこから20分ほど歩いて本丸にたどり着きます。
 
もちろん時間と体力のある人はふもとから歩いて登って、城攻め気分を楽しむもよし。
 

Bm001
 
登山中はこんな素敵な景色に出会えます。
 

Bm002
 
上に行くにつれ、石垣などの遺構があらわれてきます。
 

Bm003
 
急峻な斜面を利用しているので、石垣も迫力がありますね。
 
そして本丸に辿り着くと、待望の天守閣が。

Bm005
 
奥の2階建ての建物が備中松山城天守。
姫路城や熊本城しか知らない人には物足りないかもしれませんが、
多くの天守が3階以上なのに対して異彩を放っていて、味があります。
 
備中松山藩は6万石ぐらいだったので、全国に数多存在した同程度以下の
石高の城は、実はこんな感じの天守だったのかもしれません。
 
この日はちょうど「たかはしお城まつり」が開催されていて、甲冑の着付体験
ができました。
 
そんなわけで早速。

Bm008
 
この写真のツッコミどころは、
 
なぜ足元がヒュンメルw
 
。。。ではなく、
 
なぜ新選組?
 
ですよね。
 
実はここ備中松山藩は、谷三十郎をはじめ多くの新選組隊士を輩出しているのです。
そんな縁で結成された「岡山新選組」のみなさんと。
 
ちなみにこの兜の前立ては、この地で命を落とした「ミスター七難八苦」(?)
山中鹿之助幸盛をイメージしたものだそうです。
 
 
 
なお、ここから岡山市へ行く通り道に、豊臣秀吉の水攻めで有名な備中高松城の
城跡もあるのですが、
 

Bm006
 
こちらはただの公園になっていました(・ω・)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月 2日 (金)

城攻め戦記~会津若松城~

前夜は会津の名産をたらふく喰いまくり、大満足な気分でいよいよ会津若松城に
攻撃開始です。
 
実はここだけの話、前夜は22時にすでに寝てたんですけど。
そして朝からホテルのバイキングでカレーがっついてたんですけど。
ともかくコンディションはばっちり。
 
 
今年の春に改修工事が終わり、屋根瓦をすべて葺き替えた会津若松城。
 
Trg001
 
以前(2008/7撮影)はこんな↑感じで鼠色の瓦に覆われていましたが、
今の姿は以下の通り。
 
Trg002
 
他に類を見ない“赤瓦”をまとい、幕末当時の姿に甦りました。
これは、瓦の凍害防止のために鉄を含んだ釉薬を塗って瓦を焼いた
影響で、赤く変色したそうです。
この技術は、美濃焼を参考にしたのだとか。
戊辰戦争で新政府軍と戦った会津藩主の松平容保も、生まれは
美濃国高須藩(海津市)、さらに郡上藩士も旧幕府軍としてこの地で
会津藩とともに戦ったりと、意外にも岐阜県との接点も多いようです。
 
Trg003
 
青空に映える赤瓦。塗り替えられたばかりの白漆喰もきれいでした。
城の写真を撮る時は、やはり快晴の日に限ります。真夏は大変ですが(^_^;)
 
Trg004
 
ちょっと視点を変えてみましょう。鉄門から天守にかけて。
上の天守の写真と見比べると、天守台の石垣が自然のままの石を
積み上げた野面積(のづらづみ)であるのに対し、櫓から門にかけての
石垣は、てきとうにカットした石の隙間に細かい石を詰めた打込接
(うちこみはぎ)になっています。
築城年代によって石垣の工法も変わってくるからおもしろい。。。
らしいです(^_^;) 僕にはまだまだ石垣の奥深さはわかりません。
 
戊辰戦争中、ここ会津を舞台に行なわれた戦闘において、10代半ばの
少年たちで結成された「白虎隊」の悲劇はあまりにも有名です。
天守閣内の博物館でも、この白虎隊に関する資料が多く展示されています。
 
新政府軍との戦闘に敗れて退散し、飯盛山まで逃げてきたところ、天守閣が
燃えているのを見て悲しみ、集団自決しました。
実は燃えていたのは城下の民家で、この時点では城も無事だったことが
よりいっそう悲劇を強調しています。
 
が、城へ行く前日に僕も飯盛山に行き、白虎隊が自刃したとされる場所を
見てきたのですが、
 
Trg005
 
デジカメでズームをかけても天守閣はこんなに小さいんです。
(赤い円内)
昔の人だから、僕より視力はいいと思うけど、それにしてもこの距離で
城が燃えていると思ってしまうのは、若さゆえの過ちというか、
愚直なまでの一本気というか。。。
 
僕の好きな新選組隊士の斉藤一が会津藩とともにここで戦ったことも
あり、“城攻め”と言いながら、城を守る側に肩入れして見てしまいました。
 
なので落城はできず!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月17日 (水)

城攻め戦記 ~丸岡城~

先々週の期限付き移籍中(笑)に、丸岡城へ行きました。
 
Maru001
 
福井市の北、丸岡町にある丸岡藩5万石の城です。
二層三階の望楼型天守ということで、石垣がなければちょっと
格式のある古民家みたいですが、れっきとした城なんです。
 
しかも国内に12しかない現存天守。
 
Maru002
 
なので、天守内の階段も急角度。ロープをつかまなければ上れないほど
急勾配です。
天守閣というのは本来、非常時に物見や立て篭もりに使用したものであり
日常の生活空間ではないので、急勾配なんですね。
こんな階段着物で上り下りできません。
 
ここの特徴はもう1つ。
屋根が石で作られていることです。
 
Maru003
 
瓦だと凍結してひび割れを起こすため、その対策として石が採用された
そうです。重量があるので、5層だとか6層の大天守に使うのは無理でしょうね。
 
積雪地の城は屋根に工夫がされており、面白いです。
例えば金沢城は雪の重みに耐えられるように、また戦時には鉄砲の弾の材料に
なるよう鉛で屋根を葺いています。
この屋根の話は伏線になるのですが。。。 それがいつ明かされるかは謎!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月23日 (木)

城攻め戦記 ~掛川城~

マエダーマスク(笑)がヤマスタに出現した日、僕も偶然(?)静岡に行っていました。
行った先は掛川城。日本百名城の1つで、「功名が辻」の山内一豊でも有名な
城です。
 

Dsc03124
 
こちらの天守閣は、平成6年に木造で復元されました。
実写版の「シュート!」で、建造中の掛川城が映っているそうですが、
二度と見たくありません。
目つきだけでツヨポンを神谷さんに当てないでください。
 
実際、このような天守閣の形状だったのかは定かではありませんが、
同じく山内一豊の居城だった高知城が、掛川城を参考に建てられた
という記述があるそうで、ならばと逆に高知城を倣って建てたようです。
建造時期からして白漆喰の壁ではない気もしますね。
 

Dsc03115
 
天守閣入り口の冠木門が特徴的ですね。
初期の城はこのような質素な門が一般的だったので、その名残
でしょうか?
 
天守最上階の窓がふすまになっていたのが珍しかったです。
 
そういえば、城のすぐ横に「掛川西高校」という学校があり、
「これって「シュート!」のモデルになった学校じゃね?」と
話してたら、ボランティアガイドのおじいさんがいろいろ補足して
くれました。大島司先生が実は女性だったとか。
 
。。。知ってたけどね。
 
まぁ天守自体はわりと普通でした。復元天守とはいえ、階段はかなり
急になっているので、若い女性の方は気をつけてください。
 
この天守からも見える二の丸の御殿

Dsc03118
復元された天守と違い、こちらは江戸時代のまま残されている貴重な
史跡です。何でも、大名御殿が現存しているのは、日本全国で4箇所
だけだとか。
藩主は普段、本丸の屋敷で生活し、こちらの御殿で公務を執り行った
そうです。
 
休憩室みたいなところがあり、そこからの天守の眺めが素晴らしかったので、
藩主「ワシの城ほんとカッコいいわ~」
奥方「あははー、そうですねー(棒読み)」
というやりとりが藩主の耳掃除をしながら行なわれているのかと想像したり、
 
目付(ようは課長?)の部屋が板の間だったのに対し、大目付(ようは部長?)
の部屋は畳張りだったので、
「ワシも早く畳の間に座りたい。。。」という中間管理職の悲哀が聞こえてきそう
だったり、
 
侍A「大目付の姿が見えませぬが」
侍B「浜松藩(実在するかは知らないけど)の藩主と接待鷹狩りでござる。」
侍A「またでござるか!」なんてグチがこぼれてそうだったり、
 
歴代藩主がひんぱんに変わっている一覧表を見て、
侍女A「山内支店長、今度土佐支店に栄転らしいわよ。」
侍女B「そりゃ社長(徳川家康)が来た時にこの店(掛川城)開放してヨイショした
     のが気に入られたんでしょ。」
なんて給湯室(?)トークが繰り広げられたりetc.
くだらない考えが次々にわいてきて楽しかったです。
 
ちなみに、関が原の合戦の勢力図も展示してあったのですが、ここでも
・井伊直政と松平忠吉が、ゴング前に宇喜多秀家に花束攻撃。
・味方にキレる福島正則
・藤堂高虎をロープ際で羽交い絞めにしていた大谷晋二郎もとい大谷吉継に、
 セコンド小早川秀秋まさかのブルーボックス攻撃!
・毛利秀元が吉川広家の妨害でカットに入れず石田三成ピンフォール負け。
・試合後、島津義弘が徳川家康にプロテイン攻撃。そのまま試合会場から逃走。
・脇坂安治「しょっぱい試合ですみません。」
などと、プロレス談義が満開。
なお、徳川選手は続く「大阪夏の陣大会」でも、真田信繁(幸村)にプロテイン攻撃
を受けていますw
こうやって楽しむと、日本史もかなり面白いと思います。違うか。
 
その後、掛川城入り口のすぐ横で、「鎧屋」というお店を発見。
入ってみると、徳川家康、伊達政宗などなど戦国武将の甲冑がズラリ。
僕が狂喜乱舞したのは言うまでもありません(^_^;)

Dsc03126
子供用ですが又左衛門どのの甲冑も飾ってあり、胸熱です。
ここのお店は、甲冑の制作・販売のほかレンタルも行なっており、
何でも最近は結婚式で新郎が着用するケースが増えてきている
そうです。面白いですね。
でも、一番人気は例の「愛」のやつだとか。
だからその「愛」じゃないってのに。。。
 
記念に、剣梅鉢の家紋が入ったトートバッグを買ってきました。
こんなところでも、ま!え!だ!(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年6月20日 (月)

城攻め戦記 ~岩村城址~

もう1ヶ月ぐらい前ですが(^_^;)、岩村城へ行ってきました。
「日本三大山城」に挙げられ、女城主の話でも有名な城です。
甲斐の武田軍が織田信長を攻めた時に落城させた城で、信玄死後
信長が奪回したことから戦略上重要な拠点だったようです。
現在では、櫓などの建物はほとんど残っていません。
 
昔はどうだったか知りませんが、今はものすごく行きづらい場所なんです
よね。中央道恵那ICを下りてから、一般道で30分ぐらい走ったでしょうか?
これまでなかなか気が向かず、百名城のひとつにも関わらずほったら
かしていました。
 
ちょうどお昼頃に城下へ到着したので、そのまま昼ごはんを食べました。

Iwm001
 
古い町並みの中にある「蕎麦屋 ゆい」さんにて。
かれこれ1ヶ月以上前のことなので、細かい味は忘れてしまいましたが(!)
つゆは割と甘口だったような気がします。
もちろん、記事にするということは美味しかったということですよ。
「勝川家」という、一般公開している古民家の奥にあるお店でした。
 
ちなみにここ岩村町には、家の玄関にその家の奥さんの名前の入った
青いのれんをかける習慣があります。

Iwm002
こんな感じで。のれんの中の白い部分に「和子」とか書いてあるわけです。
この地を治めていた女城主にちなんで、女性を尊重するようになったそうです。
 
余談ですが、この古い町並みの通り沿いに建っていた銀行にものれんが
かかっており、
Iwm003
 
近くで見てみると、
Iwm004
 
。。。ありがとうございました。
 
 
あ、岩村町は「カステラ」が美味しいそうです。
後から聞いたので買えませんでしたが。
 
そんなこんなで城下の散策を切り上げ、お城へ向かいます。
岩村城は、城山の部分と、ふもとの藩主邸部分から成ります。
 

Iwm005
藩主邸の跡地には、表御門や太鼓櫓など一部史跡が復元されています。
ここから登山道を登っていきます。本丸までは800mちょっとですが、
上り坂が急で、足元も石畳なので、思ったより大変です。
 
Iwm006
 
石垣の保存状態はかなり良好です。立て看板での説明も多く、
往時はどんな様子だったのかを説明してくれるので、建造物が
なくてもいろいろ想像しながら楽しめます。
あまり期待していなかったけど、意外と楽しめたのでびっくりしました。
 

Iwm007
本丸直下の六段連なった石垣が岩村城の一番の名所です。
真下から見るとかなりの迫力でした。
 
横の階段を上りきったところに本丸があります。
Iwm008
現在は、こんな↑看板が立てられています。
 
そしてここへ辿り着いて初めて気づいた衝撃的事実。
それは。。。
 
 
この本丸跡地のすぐ横に駐車場があり、歩いて登らなくてもここへ
来れたこと!!!
 
まぁでも、昔の城攻めの雰囲気を感じながら歩いて登るほうが
楽しいと思いますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月17日 (金)

中国攻め ~福山城編~

午前中に広島城へ行ったあとは、パルコ→お好み村とありきたりなところへ
寄り、正午頃には広島をあとにしました。すばらしい街でした。また行きます。
 
その後、福山城へ行きました。
 
110506_

 
広島県の東部・福山市にある福山城。市街地のド真ん中にあり、
何でも日本の城の中で新幹線から一番近くに見える城だとか。
 
完成は元和8年(1622)で、江戸時代に入ってから改築された城というのは
たくさんありますが、まっさらな土地に新たに創られたのは全国的にも珍しいと
思います。
天守閣のタイプも、白壁+層塔型という後期の特徴が見られます。
ウィキペディアによると、京都の伏見城から移築された建造物も多く、十万石の
城にしてはかなり豪華で大規模な城です。
毛利の押さえという意味で、重要な拠点だったのかもしれません。
 
この福山城は前述の通り、市街地のド真ん中にある平山城なので、撮影スポットに
困る城です。
引きの画を撮ろうとしても、木で隠れたり、近隣のビルがジャマしたり、電線が
見切れたり(苦笑)
そんなわけでまともな写真は上のものぐらいしかありません。
 
しかも、この日は岐阜で謀反が起きたため。。。
ウソです。夜にフットサルの予定が入っていたため、見学もそこそこに岐阜へ
帰らなければならなかったので、何か「行っただけ」の城になってしまいました。
 
城内には伏見城から移築された櫓などが多く残っているため、じっくり見学すれば
なかなか見ごたえのある城だろうと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年6月15日 (水)

中国攻め ~広島城編~

荒木村重が謀反を起こしたため、中国攻めの記事化が大幅に遅くなってしまいました。
 
。。。ウソです。サボってただけです。
 
さぁさぁそんなわけで、吉田郡山城へ行った翌日に、広島城へ行きました。
その間にものすごく濃い出来事がたくさんあったわけですが、城攻めには関係ないので
今回は割愛させていただきます。
 
広島城は、吉田郡山城に本拠地を置いていた毛利氏が、広大な領土を治めるために
新たに築いた平地の城(平城)で、元就の孫でボンクラ大将(!)こと輝元が築城しました。
しかし、築城後間もなく関ヶ原の戦いの責を問われ、萩に飛ばされてしまいました。
その後、福島正則が入城しますが、こちらも城の無断修理を咎められ言いがかり的に
処分され信濃に飛ばされました。何だか縁起が悪いですね。
その後を次いで入城した浅野氏は明治維新まで治世を続け、今日の広島の発展に
つながったと言われています。
 
戦時中まで天守閣は残っていたのですが、原爆で跡形もなく吹っ飛んでしまい、
現在の天守閣は昭和28年に鉄筋コンクリートで建てられました。
広島市民にとって、広島城は単なる史跡ではなく、廃墟の中から立ち上がった復興の
シンボルであると勝手に感じています。
 
現在確認できる縄張りは内堀・本丸・二の丸のみですが、往時は芸備49万8000石の
盟主にふさわしい広大な城だったようです。

Hrs001
こちら二の丸。本丸とは橋1本で繋がっているだけで、出島のようになっています。
この構造は「馬出」といい、戦時に城の防御力を高めるために設けられました。
 

Hrs003
そしてこちらが天守閣。鉄筋コンクリート製とはいえ、外壁に木板を貼って
あるので木造のように見えます。
代表的な城といえば、姫路城と熊本城が挙げられますが、それに勝るとも
劣らない雄姿だと思いませんか?
僕はあまり現存天守にはこだわらないので、ここの天守閣はかなり好きな
タイプです。
しかも、どの角度から見ても様になるんですよね。

Hrs004
 
Hrs005

 
Hrs006

 

Hrs007
 
現在は大天守だけですが、往時は脇に2つの小天守があったそうです。
同じ望楼型ということで、姫路城のような豪壮な姿だったことでしょう。
原爆が投下されなければ破壊されなかっただけに、残念でなりません。
 
完全な天守閣の姿を見てみたかったです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年5月12日 (木)

中国攻め ~吉田郡山城編~

今年のゴールデンウィークは、中国(地方)へ行っていました。
いやつまり広島なんですけどね。
 
旅の出発は、なぜか富山から。
最初の目的地・吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)へは、中国自動車道の
高田ICが最寄なので、
北陸道のヒーハー小杉IC(!)から敦賀ICまでは高速を走り、そこから国道27号を
西進して舞鶴若狭道の小浜西ICへ。
ここで再び高速に乗って、兵庫県の吉川JCTから中国道に合流というルート。
恐ろしく空いていたので快適なドライブでした。
道路情報を見ていると、夜中の0時30分に宝塚トンネルで12kmの渋滞が起きていた
ようなので、このルートは正解だったと思います。
しかも吹田経由でずっと高速を走るより、100円安いんですよね。
 
夜通し走って帝釈峡PAに着いたのが5月5日のAM4:00。そこで4時間ほど仮眠を
とったのち、高田ICから目的の吉田郡山城跡へ。ほんとは3時間だけ寝るつもり
だったんだけど。
 
Yk001
 
中央に見える山が、吉田郡山城跡。「三本の矢」で有名な毛利元就の
居城だったところです。
が、天守閣はおろか櫓や石垣も残っていません。
まだまだ城攻め経験の浅い僕にはちょっと残念な城です。
この城に立てこもって尼子の大軍の猛攻撃を防いだというのは、にわかには
信じられない話です。
 
途中まで上ったのですが残念ながら時間が無くて本丸へは上がれず、
引き返してきました。
ふもとには、毛利元就公の銅像がありました。

Yk002
 
最も有名な肖像画の顔に似ています。実際の顔もシュッとしていたんでしょうか。
 
登山道の途中にあるのは、「百万一心」の碑。

Yk003
 
よく見ると、「一日一力一心」とも読めます。
つまりは「みんなで力を合わせ地道にコツコツがんばりましょう」という
ことですね。
 
また、ふもとの清(すが)神社は毛利氏にゆかりがあり、近年では
サンフレッチェがシーズン前に必勝祈願を行なうところだそうです。
神社の境内に紫色ののぼりが多数飾られているのは、意外とマッチして
いました。
 
Yk004
 
この日はドンピシャのタイミングで祭事がおこなわれており、社殿を
じっくり見ることはできませんでした。
 
なお、同じくふもとにある安芸高田市歴史民俗博物館に、大河ドラマ
『毛利元就』で元就役の中村橋之助が着用した甲冑が展示して
ありました。

Yk005_2
 
正直、まだまだこういうもののほうが心が踊るお年頃なんです。
 
そうそう、街のマンホールがこんな凝ったデザインでステキでした。
Yk006
 
よしだ。。。平仮名で書くとなんかカワイイ。
 
 
ちなみに、城への登山道で、
 
「まむしに注意」
 
という看板がいきなり目に入ってきたので、実はビビリながら歩いていた
というのは内緒(^_^;)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月11日 (月)

一夜城

昨日の夕方に、大垣市墨俣町の一夜城へ行ってきました。
桜の名所としても有名な同所はこの時季、やはり観光客でごった返して
車で行こうものなら渋滞に巻き込まれて動けなくなります。
なので、ケッタ(岐阜弁で自転車)で行ってきました。
うちから20分も走れば到着する城なのです。
 
この一夜城、織田信長の美濃攻めの際に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が
一晩で作ったとされるものです。
とはいえ、上流で伐採した木材を筏にして川に流し、下流で回収して大急ぎで
作ったものなので「城」と呼べるシロモノではなく、「砦」程度のものでしたが。
そして、戦時の拠点として築いただけで、治世のために築かれたわけでは
ありません。
 
なので、

20110411002
 
こんな切込接の石垣や漆喰壁や層塔型天守を持った城なんて
できるはずがありません。
そもそも時代錯誤です。
大垣城をパク。。。参考にしたそうですが、どうせなら安土桃山期の
天守をパク。。。倣えばよかったのにと、つくづく思います。
 
などとひと通り文句を言いましたが、城郭風建造物(笑)と桜の相性は
抜群によいです。さらにここは桜だけでなく、川・橋というオプションにも
恵まれており、一眼&三脚で武装したフルアーマーカメラマンの方も多く
見かけました。
 
天守の周りをひとしきり撮影してまわり、さてどの写真が一番カッコよく
撮れたかと後からチェックしたところ、この写真がよいのではないかと思います。
 
110410_
 
桜・橋・川と3要素が揃っているうえに、いかにも「最近作りました感」
がプンプン漂っている石垣を桜が隠してくれているので、歴史ある建物
のように見せかけています。
また、石垣が隠れていることで天守の実際の高さがわかりづらくなり、
4層なのにもっと大きな建物のような錯覚をしてしまうのも面白いです。
 
すでに花は散り始めて葉も目立ち始めているので、今週前半が見ごろ
ではないかと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月10日 (日)

藤橋城の奇跡

先週の予告どおり(?)、藤橋城へ行ってきました。
旧藤橋村、現在は揖斐川町にあるんですが、過去に藤橋の道の駅に
行った経験からそんなに遠くないだろうと思っていたら、大垣市街から
70分近くかかりました。予想以上に遠いです。
徳山ダムが目と鼻の先でしたから、旧藤橋村、相当広いです。
「ヒマだしちょっと藤橋城まで行くか~」ぐらいの軽いノリで行かないように
しましょう。
ダム沿いを走る道もカーブが多く、危険です。
 
さて、そんなこんなで藤橋城のそばまで辿り着いた時に、広いグラウンドで
体を動かしている子どもたちが目にとまりました。
全員、緑色のTシャツを着ていたので、
「まさかFC岐阜関係じゃないわな。いくら緑だからって。」
と思っていたら、まさかの胸に「FC GIFU」ロゴ。
しかも、どこかで見たことのあるミズノのジャージと、どこかで見たことのある
体型の人(!)を発見。
 
やっぱりおすもうさんことFC岐阜U-15監督の河野さんでした!
U-15の新加入選手(新中学1年生)の合宿で来ているそうです。
何というミラクル。

20110410001
 
まだ雪の残るこんな奥地で合宿とは何と本格的な。
確かに思いっきりサッカーに集中できる場所ではありますな。
 
たまたまいい場所にボールが転がってたので。。。
 
20110410002
がんばれ! 未来のJリーガー 的な(笑)
 
そんなステキな出会い(と思っているのは僕だけでしょうが)を経て
本日の目的地・藤橋城へ。
 
110410_
 
実は、「藤橋城」という建造物は歴史上存在しないのです。
南北朝時代にこの地に砦が築かれていたことは間違いないのですが、
戦国期にこんな近世城郭はなかったのです。
 
しかもこの建物、内部はなんとプラネタリウムなんです。
つまり、藤橋城とは「史跡」ではなく、「お城風のプラネタリウム」というのが
正解なのです。
なんという力業。
 
しかし、僕としては単純に建造物としてかっこよければOKなので、
これも立派な城なのです。
こんなこと言ってたらそのうち県内の「初寿司」を全店回るとか、そんな
しょうもないことを始めそうだけども。
 
石垣部分が1階に相当し、ここがそのままプラネタリウムになっています。
ちょうど上映時間が迫っていたので、あまり期待せずこのプラネタリウムを
見たのですが、これが意外によくて少し感動しました。
特に二胡のような弦楽器が奏でる郷愁的な音楽がすばらしかったです。
 
20110410003
 
すぐ横を揖斐川が流れる、立地条件も優れた場所です。
しかし、いかんせん遠い。。。
 
その後、帰宅してから、ケッタでひとっ走りして墨俣の一夜城に行ってきました。
こちらについてはまた後日。
着々と美濃統一(笑)にむけて進んでいますが、こうなると次はやはり
岩村城へ行かないといけませんね。
ここも遠いんだよなぁ。。。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧